★ ミッション・マリアージュ ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-7471 オファー日2009-04-25(土) 22:13
オファーPC レイ(cwpv4345) ムービースター 男 28歳 賞金稼ぎ
ゲストPC1 ティモネ(chzv2725) ムービーファン 女 20歳 薬局の店長
<ノベル>

■scene1 Invitation■

 例えば、だ。
 熱烈交際中の――とまではいかずとも、“愛している”という言葉と口づけを交わした女から、
 『私、この度こういうことになりました。ごめんなさいね?』
 というメールと花嫁姿の画像が送られて来たら、大半の男は慌て、動揺することだろう。絶望する者もいるだろうし、結婚をどうにか阻止しようと画策する者すらいるかも知れない。
 「どうせ式場のモデルか何かだろ」
 だがレイは相変わらず冷めていた。手元の携帯電話、その小さな液晶画面の中でウエディングドレスに身を包んだティモネが微笑んでいる。おおかたレイを驚かせようとでもしたのだろう。
 『明日の午後にセレモニーを行います。どうぞ見に来てみてください』
 メールはそんな文言で結ばれ、追伸には『ベイリーフヒル迎賓館』という結婚式場の所在地が記されていた。最近オープンしたばかりの式場だという。ベイリーフヒル、即ち海の見える丘。名前だけでも若い女性が飛びつきそうな式場だ。
 「ま、どうせ暇だし。行ってみるか」
 実を言えばティモネのドレス姿に少なからず興味があったのだが、そんな本音は携帯電話と一緒にポケットに突っ込んで式場へ向かうことにした。
 そして翌日。無事目的地に到着し、二時間ほど経った頃。
 「……何が“海の見える丘”だ」
 レイはスラム街のど真ん中に立っていた。
 ――さて、話を進める前にこの二時間で起こった出来事を順に説明していこう。


■scene2 Lost Bride■

 ベイリーフヒル迎賓館はその名の通り丘の上に建っている。結婚式といえばウエディングドレス、ウエディングドレスといえば白だ。瀟洒な教会と洋館に似た迎賓館が清潔な白で統一されているのはその辺りを意識したのだろう。白亜の建物が瑞々しい緑に囲まれて佇んでいる様などはまるで高原のリゾート地といった風情であった。
 眼下には、海。真っ青な海と空がまっすぐな水平線を境にどこまでも広がっている。祭壇の前で愛を誓ったカップルはフラワーシャワーの祝福を受けながら外に出て、海を望みながら祝福の鐘を打ち鳴らす。その後は西洋風の庭園で披露宴代わりのガーデンパーティーをというのがこの式場の売りであり、スタンダードなプランでもあるらしい。
 「んなもん、雨が降ったらどうすんだよ」
 レイはひどく現実的な突っ込みをこぼしてアーチ型の門をくぐった。
 教会といっても生粋(?)のものではなく、ウエディングに用途を限って建てられたチャペルにすぎない。どうせ大したことはあるまいと軽く見ていたレイであったが、礼拝堂を覗くなり「へえ」と声を漏らした。高い天井、細密に作り込まれたステンドグラス。祭壇も参列席も重厚で上質な木材で作られていて、悪くない。
 「はあ。大したもんだな」
 顎に軽く手を当てて独りごちながら脳裏に浮かぶのはティモネの顔だ。
 結婚など考えたこともないし、とんでもない話ではある。だが、年頃の女性であるティモネはいずれこういった場所で結婚式を挙げたいなどと思っているのだろうか。
 (……ま、俺には関わりのない話だ)
 そんなふうに自分すらも煙に巻くのはレイの悪い癖だろう。
 「――見学ですか?」
 という声が不意に背後から聞こえて来てレイは黙考を解いた。
 立っていたのは神父であった。レイと同じく髪は金、目は青。柔和な顔立ちで、神父特有のかっちりとした服装がよく似合っている。
 「いや。見学っつーか……知り合いに呼ばれた。ここで花嫁のモデルか何かやってるみたいでな」
 “彼女”と呼ぶのは気後れする。ましてや“恋人”など尚更だ。結局、逡巡したレイが選んだのは“知り合い”という便利で曖昧な単語であった。
 「それでは、もしかしてティモネさんの?」
 「知ってんのか?」
 「伺っております。ハンサムさんが見に来るからよろしく……と」
 神父は唇の端にうっすらと笑みを浮かべた。「申し遅れました。わたくし、マーキスと申します。当式場でのセレモニーで神父の役をさせていただいておりまして」
 「ああ、やっぱり。見たところ一般人のようだが……」
 「この街では私のような存在をムービースターと呼ぶそうです」
 「スターだったか。これは失礼」
 「いえいえ、この通り特徴のない風貌をしておりますからね。映画の中では神職などとは縁のない世界におりましたが、こちらに来てから神の教えに触れて感銘を受けまして。それ以来神父の真似事などを」
 「へえ。前は何してたんだ?」
 というレイの問いにマーキスはにっこり微笑んで答えた。
 「ギャングです」


 花嫁は結婚式の主役だ。そして主役はクライマックスで登場するものである。式場では順調にプロモーションが進んでいるが、ティモネの出番はもう少し先だった。
 (少しはびっくりしてもらえたかしら)
 控室で腰かけているティモネはくすくすと笑みを漏らした。手の中の携帯電話には昨日レイに送ったメールと画像が表示されている。レイのほうはモデルであることを最初から察していたのだが、ティモネはそれを知らない。
 ティモネが身に着けているのはトラディショナルなAラインのドレスだった。ふんわりしたラインのプリンセスタイプや艶めかしいマーメイドラインの物もあったのだが、スレンダーな体型を引き立てるにはすとんとしたラインのドレスのほうが良かろうと言われてこの一着に落ち着いた。ほっそりした腕を包むのはドレスのフリルと同じ柄に編まれたレースの手袋だ。化粧を好まないティモネだが、式場の宣伝のためである今日だけはスタイリストの手によってナチュラルなメイクが施されることになった。いつもは結って垂らしているだけの黒髪も作り込まれたアップスタイルにまとめられている。
 「びっくりしてもらえるかしら」
 思わず、同じような台詞を声に出して呟いた。ティモネもうら若き女性である。着飾った姿を意中の男性に見てほしいと思わないわけではない。
 鏡に映るのは紛れもなく花嫁の姿。しかし祭壇の前で隣に立つ花婿はただのモデルの男性だ。
 長い睫毛の下、赤い瞳がわずかに愁いを帯びる。
 (……今日はただのモデルだもの)
 レースに包まれた手が何かを確かめるように胸元のネックレスへと触れた。グリーンオニキスをあしらったそれはドレスには合わないから外して欲しいと式場側に言われている。
 だが、今は着けていたい。係が呼びに来た時に外せば良いだろう。
 ――複数の足音が近付いて来て、ティモネは慌てて目を上げた。式場の職員が迎えに来たのだろう。だが、名残惜しい思いでネックレスを外すティモネの手はすぐに止まった。
 どうとも喩え難いこの違和感。そうだ、これは――
 唐突に世界が歪む。白い壁が、備え付けのテーブルと椅子が、鏡に映った自分の姿が。目に映るものすべてが、コーヒーに垂らしたミルクのようにいびつな渦を描き始める。
 「あ――」
 瞼が落ちるのを止めることができない。抗っても無駄だと直感した。足がふらつく。体がかしぐ。霞みゆく意識と視界の中、白を基調にした控室がいつの間にか粗末なプレハブ小屋へと変貌していることを知った。
 咄嗟にネックレスをなくさぬようにと右手を握り込んだが、それまでだった。緑色の石だけをしっかりと握り締め、花嫁はなす術なくその場に昏倒した。


 催眠ガスが薄れる頃を待って二人の男が掘っ立て小屋へと侵入した。
 彼らはティモネを軽々と抱き上げてその場を後にする。力なく垂れ下がる花嫁の手からネックレスが滑り落ち、遺留品よろしく小屋の中に転がった。
 気付いてと。助けに来てと、声高に叫んでいるかのように。


 さして面白くもないが、まさか退屈とは言えない。レイは集団の最後尾について歩きながらぼんやりとデモンストレーションを見物していた。
 通り一遍の流れだ。迎賓館内の案内があり、料理の説明がなされ、うち何品かは試食として振る舞われた。それが済めば次は庭へ。庭園中央の噴水はバルーンリリースにも最適だという。その奥へと進めば西洋風の生垣で区画された緑地が現れる。ガーデンパーティー用の場所だろう。
 「さあ、それではチャペルに参りましょう。模擬ウエディングのセレモニーをご用意させていただいております」
 案内役の女性職員を先頭に見学者たちはぞろぞろと教会に入って行く。
 礼拝堂には既に神父と聖歌隊が顔を揃えていた。祭壇に立った神父のマーキスがレイに向かって小さく目礼してみせる。神父の対面にはタキシード姿の新郎役も立っており、準備は万端――の筈なのだが。
 花嫁が現れない。花嫁が来なければ何も始まらないのに、花嫁が現れない。
 さざなみのようなざわめきが礼拝堂に広がっていく。職員は「少々お待ち下さいませ」と丁寧に腰を折って外に出て行った。
 「……どうしたのでしょうか」
 壇上のマーキスも首をかしげる。新郎も聖歌隊も、参列席に腰かけた見学者たちも同様だ。
 ただレイだけが動かなかった。最後列に腰かけていたレイだけがその予兆に気付いていた。
 ――すっかりお馴染みとなったこの感覚。世界が塗り替えられるような、あるいは世界の中に別の世界が割り込んだかのような決定的な違和感。
 体を捻ったレイが長椅子の背をひらりと飛び越えるのと、“それ”が発生したのはほぼ同時だった。
 「な」
 「何よこれ!」
 「は、ハザード!?」
 狼狽する見学者たちの声を背に聞き、扉を蹴って外に飛び出す。
 そこに開けていたのはまさに別世界、ハザードだった。海が見える丘は今や錆びとゴミとくすんだ空の色が支配する淀んだ街並になり果てていた。瀟洒なチャペルまでもが傾きかけた古い教会へと変貌を遂げているではないか。
 「……何が“海の見える丘”だ」
 そして、スラム街へと塗り替えられたベイリーフヒルのど真ん中でレイはそう呟いたのだった。


■scene3 Chase,Chase,Chase!■

 幸いなことに、見学者と職員の全員が銀幕市民であった。こういった事態に耐性のある市民たちは恐慌を起こすことなく行動し、教会から少し離れた空き家を一時避難場所と定めた。
 一方、レイはそこらじゅうの廃屋や掘っ立て小屋を片っ端から改め、逃げ遅れた式場の職員や一般客がいれば避難場所まで誘導していた。しかし本当に探している相手は見つからない。
 やがて粗末なプレハブ小屋に辿り着いたレイはぴくりと眉を動かした。
 「……お約束、か」
 小屋の中に転がっていたのはグリーンオニキスのネックレス。状況を把握するには充分すぎる遺留品だ。
 「やれやれ。せっかくプレゼントしたってのに」
 いつもの軽口を叩いてネックレスをポケットに突っ込むが、その口許は決して笑ってはいなかった。
 ハザードに巻き込まれたのだ、ティモネは。しかし、職員や見学者たちが無事なのに何故彼女だけが姿を消したのだろう?
 考えるより先に手が動いていた。コートの中に突っ込んだ指の先に触れるのは小さなデータカードだ。中には対策課の映画データベースに収載されているのと同じだけの情報が詰め込まれている。
 項のスロットにカードを挿入しようとした時、蒼白な顔をしたマーキス神父がまろぶように駆けてきた。
 「レイさん。ティモネさんは?」
 レイは返事の代わりに小さくかぶりを振ってみせる。生真面目な神父は「おお、神よ」と呻き、祈りを捧げる信者のように両手を胸で組み合わせた。
 「この街は……わたくしの故郷に似ています」
 「成程。元ネタはおまえの映画か、そりゃ話が早い。ストーリーは? ……って確か、おまえ」
 「……我々のボス……つまりギャングのボスが花嫁をさらうのです」
 申し訳なさそうに告げる神父の前でレイは頭を抱えた。
 「で、その花嫁がティモネみてえな東洋系の女だったりするってか」
 「まさしく。わたくしも初めてティモネさんにお会いした時は映画の中の彼女が実体化したのかと思ってしまったくらいですから」
 主人公のコルセオとヒロインのクーメイは平凡なカップルであった。しかしある時、スラム街を牛耳るギャングのボスが現れてクーメイに横恋慕。しかしクーメイはコルセオ一筋で、コルセオもまたギャングの脅しに屈せず、二人は結婚しようとする。だが挙式当日、業を煮やしたギャングが式に乱入して花嫁をかっさらい、コルセオ青年は愛しいクーメイを奪還するためにたった一人で彼らに立ち向かう。そしてカーチェイスや爆破シーンを経て花嫁を取り戻し、晴れて結ばれる――というアクションコメディらしい。
 すべてのケースに当てはまるわけではないが、ハザードを収束させるためには映画通りのストーリーを演じてみせれば良いことが多い。そしてこの映画のエンディングは主人公とヒロインのウエディングシーンだ。
 (……まさかな)
 とんでもない話だ。恋愛と結婚は全く違う次元の問題だ。
 サイバー化された左目がめまぐるしく稼動する。望遠機能が黒塗りのセダン――定番かつお約束だ――二台の姿を捉えた。ウインドウに照準を合わせて拡大。間違いない。ギャング連中とティモネだ。
 「……さて。お約束ならコルセオも実体化してねえってことになるが」
 「お約束、とは?」
 「いや、こっちの話。ともかく、花嫁サンを取り返しに行きますか」
 飄々と宣言したレイだったが、その双眸は黒セダンの姿を睨みつけたままだ。


 「ヒャーーーッハァ! いいねいいねこのスピード感!」
 「よせ、ヴェガ。騒々しい」
 「あンだよノッツォ、かてェこと言うなってよォ!」
 そのセダンはまるで暴走族の車のようであった。全開にした窓に腰かけて上半身を車外に出した赤毛の男が拳を振り回している。何だか残念な人物のようだ。対照的に、ハンドルを握っている筋肉質で茶髪の男は寡黙な様子である。
 「目立つのが俺らの仕事だろうがよォ。派手に暴れてやろうじゃねえの」
 「暴れるのはあの青年が追いついて来てからで良い」
 ひょろひょろした赤毛はヴェガ、ガチムチの茶髪はノッツォという。対照的な外見と性格はお約束だ。
 一方、彼らの前方を走るもう一台のセダンは未だ沈黙を保っている。鈍色の空の下、花嫁をかっさらったギャングたちは獰悪な排気音を撒き散らしながら爆走する。無人の露店や浮浪者のテントもお構いなしに吹っ飛ばしながら。錆と土埃に染まった街並に濁った排気ガスがもうもうと立ち込める。
 「いーじゃんいーじゃァーん? のろまな亀さん、ここまでおーいでってなァ!」
 弾の無駄遣いはするなというノッツォの制止は届かない。高笑いを繰り返すヴェガは景気良くサブマシンガンを乱射する。スラム街の道路は凹凸が目立つ。がくんがくんとセダンが上下する度に弾幕も波打ち、それのどこが気に入ったのかヴェガはますます笑い声を大きくする。
 「……あいつ、トチ狂ってやがるのか?」
 ハザード内にあった適当な車に乗り込んで追尾するレイにはそれが見えていた。望遠やサーモグラフィーなどを活用しながらサーチを続けているが、主人公のコルセオはやはり実体化していないようだ。
 「組織の中でも一、二を争う問題児です。彼を制御できるのは相棒のノッツォだけでしょう」
 レイの隣でハンドルを操るのはマーキスだ。自分の出身映画が関わっていることを気に病んだ彼はレイへの協力を申し出たのである。レイは一も二もなく承諾した。ナビゲーターがいてくれるに越したことはない。おまけにマーキスはギャング仕込みのドライビングテクニックを存分に発揮し、疾駆する標的を猛追している。
 敵は二台に分乗している。一台はヴェガとノッツォ、もう一台が別のギャング二人とティモネであることは確認済みだ。雑魚は無視して花嫁を奪還したいところだが、まずは弾幕を撒き散らすヴェガを黙らせないと厄介である。
 「まるでチンピラだぜ」
 レイは舌打ちして銃を取り出した。弾数では不利だが、精度ならこちらに分がある。
 人殺しなどするなとかつて言われた。だから戦闘はできるだけ避けたい。しかしこの状況で穏便にミッションを遂行することは不可能だ。
 (……最短でけりをつけてやる)
 窓枠に腰掛けて銃を構えるレイの目に暗い光が灯る。
 まだ遠い、とマーキスが叫んだ。しかし体の60%以上をサイバー化しているレイだ。目視でもレーザーポイントなどよりよほど精確で――速い。
 ダァン!
 マシンガンを弾き飛ばされたヴェガが「ぎゃひっ!?」と悲鳴を上げた。もちろん実際には聞こえなかったが、きっとそんなふうに叫んだ筈だ。
 ダァン!
 噴き上げる朱。狂った男の腕が着弾のショックでねじくれながらダンスする。まるで腕だけが別の生き物のよう。何か喚いているのが見て取れる。しかしレイの追撃は的確に、冷酷に続く。
 ダァン!
 三発目がめり込んだのは腕ではなく大腿だ。ぱっと裂けたボトムスから血と肉が飛び散る。ぐらついたひょろ長い体はついに地面へと叩きつけられた。
 「成程。振り落とすために足を狙いましたか」
 「このスピードなら車から落とすだけでダメージになるしな」
 手間が省けるからというのはもちろん方便だ。しかし本心はおくびにも出さない。
 地面を転げ回るヴェガの脇をすり抜けて更に追い上げる。もはやノッツォはレイの眼中にはない。目指すは前列の一台。ティモネさえ奪還できれば良い。
 知らず、ティモネの名を叫んでいた。常に冷静なレイにしては珍しいことだった。マーキスはノッツォの車を追い抜かんと一気にアクセルを踏み込む。その寸前、ハンドルを握るノッツォの片手が真後ろ、即ちレイ達が乗る車のフロントガラスへと向けられた。岩のような手の中でやけに小さく見えているのは――ベレッタ!
 「チィ!」
 タイヤが悲鳴を上げる。一方、平然と運転を続けるノッツォは振り返らずにベレッタを発射した。フロントガラスが一瞬にして真っ白に変じる。背中に目でもついているのか。更にもう一発。砕け散ったガラスが雨となって車内に降り注ぐ。
 押し殺したマーキスの悲鳴。レイの怒号。
 フロントガラスを砕いた弾丸がマーキスの肩に突き刺さっていた。
 「マーキス!」
 「……これしき……」
 強がりつつもマーキスの手はハンドルからずり落ちた。車が横滑りを始める。ゴムが焼けるにおいが鼻をつき、スピンするタイヤから白煙が上がる。
 だが、車体を立て直そうと足掻く暇すら与えられなかった。
 窓を開けたノッツォが後ろ手に何かを放り投げたのである。まるでゴミでも投げ捨てるかのように。
 「くそっ、お約束か!」
 通称パイナップル。つまり手榴弾だ。
 レイは車外に飛び出した。刹那遅れて爆発音が耳をつんざく。見た目よりも重い体は爆風と熱波に押し出されるようにして吹っ飛んだ。
 「……どうしてくれんだよ。コートが台無しだ」
 軽口を叩きつつ周囲に目を走らせる。マーキスの姿は確認できない。乗っていた車はドリフトしながら明後日の方向へ飛んで行ってしまった。マフィアたちのセダンもとっくに遠ざかっているだろう。
 ガァン!
 「――!?」
 アスファルトを舐める炎を割って弾丸が飛び出した。咄嗟に転がって避けたレイの脇を大きなバイクが彗星のように駆け抜ける。真っ赤なハーレー。真っ赤なライダースーツ。ボリュームのあるウエーブヘアを爆風になびかせ――もちろんノーヘルを指摘するのは野暮だ――、女ギャングは炎の中から現れた。
 「イッちゃいなさい。天国へね」
 挑発的に持ち上げられる唇。美しい手の中にはコルト・ガバメント。
 「……これもお約束か。イイねえ」
 銃口の前でひゅうと口笛を鳴らし、レイもまた唇の端を吊り上げた。


 頭の中に濃密なスープを詰められたかのようだ。意識が、記憶が、輪郭を失ってぼうやりとたゆたっている。
 カラン、カラン。
 (……何かしら)
 カラン、カラン。
 (鐘? ……そうだわ。教会で新婦のモデルをしていて……)
 カラン、カラン……。
 打ち鳴らされる鐘の音によって急速に自我を取り戻し、ティモネははっと飛び起きた。途端に眩暈のするような頭痛に襲われてその場に手をつく。そして自分が置かれた状況をようやく理解した。
 美しいステンドグラス、高い天井、重厚な祭壇。そこは紛れもなく教会であった。しかしティモネがモデルを務めるあの結婚式場ではない。見覚えのない教会の礼拝堂、祭壇の前にしつらえられたベッドの上にウエディングドレス姿のまま横たえられていたのだった。
 供物。生贄。不吉な言葉が脳裏をよぎり、軽く眉根を寄せる。
 (少なくとも、レイさんがさらってくれたわけじゃなさそうね)
 カラン、カラン、カラン……。屋外で鳴り響く鐘の音はどこか間延びして聞こえる。
 ベイリーフヒル迎賓館の控室で出番を待っている時に不意に眠気に襲われた。昏倒する寸前にハザードが発生したらしいことも見当がついている。何らかの形でハザードに巻き込まれてしまったということなのだろうか。
 半ば無意識のうちに胸元に手をやり、思わず息を呑んだ。ネックレスがなくなっている。意識を失う寸前にしっかり握った筈なのに。
 「お目覚めですか、じゃじゃ馬さん」
 いつの間にか鐘の音はやみ、代わりに荒っぽい雰囲気の男が二人入って来た。
 「……どちら様?」
 いつものように、しかしどこかひんやりとした微笑を浮かべてティモネは尋ねた。この男たちに拉致されてここに連れて来られたのだと直感したからだ。
 「お忘れですか。俺はケリー、こっちはジン」
 「まぁ、そうなの。存じ上げませんわ」
 「お戯れを、クーメイさん」
 「あらやだ……クーメイってどなた?」
 「お戯れを」
 ケリーは鸚鵡のように繰り返した。「もうすぐボスがお見えになります。鐘の試し打ちをしてみたが、具合はいい様子。準備は整いました。しばらくここでお待ちを」
 「出て行ってもいいかしら?」
 「もうすぐボスがお見えになります」
 「ボスってどなた? ティモネさん、心当たりがないんですよ」
 口許に手を当てて楚々と微笑みつつも赤い瞳は冷めた光に覆われている。
 うっすらと事情が見えてきた。やはりハザードに巻き込まれたのだ。恐らくは、元になった映画の登場人物として。花嫁役が自分に似ていたのかも知れない。そしてこのままではそのボスとやらに花嫁として捧げられる羽目になるのだろう。
 「とにかく、出て行かせてもらいますね」
 「……手荒な真似はしたくないのですが」
 「していただかなくて結構です。それではごめんあそばせ?」
 ベッドを降りようとしたティモネの腕をケリーが掴んだ。
 「お待ちを」
 「嫌です」
 「どうしてボスのお気持ちを分かってくださらない? ボスはあなたと結婚式を挙げるためにわざわざこの教会を建てたんです。あのオンボロ教会はあなたにふさわしくないとおっしゃって」
 「知りません」
 「とにかく、ここでお待ちを」
 「あら……怖い顔して」
 ぼんやりとしたステンドグラスの光の中で花嫁はにこりと微笑んだ。
 刹那の沈黙が落ちる。
 「――こちらも手荒な真似はしたくないんですけどね?」
 次の瞬間、二人は悲鳴を上げて左右に吹っ飛んだ。
 どこからともなく取り出された――そう、どこから取り出したのか彼女自身にも分からない――大鎌が二人の男の間すれすれに振り下ろされていた。
 「目障りです。消えて?」
 死神の鎌を片手に、純白のドレスに身を包んだティモネは相変わらず冷然と微笑んでいる。
 「……やむを得ん。手加減は無用か」
 だが、落下した二人が拳銃を構えて立ち上がるよりも早くティモネが絨毯を蹴って飛び出していた。
 何の躊躇いもなくドレスの裾を引き裂く。露わになる白い太腿。ハイヒールの爪先が円を描き、一閃!
 「ぐ!」
 花嫁の回し蹴りを首に喰らったケリーは目をむいて倒れた。後ろ手に振った鎌がジンの急所を的確に捉え、あっさり昏倒させる。
 「さて……帰らないと」
 チャイナドレスばりのスリットから美脚を覗かせ、ティモネは悠然とバージンロードを歩み去った。
 (そういえば、レイさんはどうしてるのかしら)
 本当に式場に来てくれたのかどうかは分からないが、もし来てくれていたのならこのハザードに巻き込まれているかも知れない。助けに来てはくれないだろうかという思いがちらと脳裏をよぎる。
 だが、そんなほんのりとした感慨はすぐに打ち消されてしまった。
 「戻れ、じゃじゃ馬」
 教会の前で乱暴に停まった黒塗りの車から、筋肉質で茶髪の男がぱきぱきと指を鳴らしながら降りて来たのである。


 ギャングの割には随分スタイリッシュでセクシーだと思ったが、レイはハーレーに乗った女の名がエイミーであること、彼女がフリーのエージェントであること、ギャングのボスの昔馴染みであることを手持ちのデータカードの検索によって知った。この程度の作業なら他の動作と並行しながらでも難なくこなせる。
 真っ赤なライダースーツに包まれたダイナマイトボディ、色気たっぷりの顔立ち。この手の映画の定番だろう。燃え盛る炎をバックにハーレーが唸りを上げる。彼女が放った初弾をレイは辛うじて避けたが、不利な状況が続いていることには変わりなかった。
 (どうせなら俺が尻を追いかけたいところだが)
 何せ相手はバイクに乗っている。建物の影を利用してうまく立ち回っているが、自分の足で走るしかないレイでは勝負は見えている。
 (ま、美女に追いかけられるのも悪かねえな)
 ガァン!
 (っと。前言撤回)
 銃声とともに弾丸が耳元を掠めていく。その時、めまぐるしくサーチを続けていた左目が崩れかけた廃ビルのシルエットを捕捉した。あと100メートル、80メートル、50メートル、20メートル。速度を緩めぬままガラスをぶち割ってビルの中に飛び込む。目の前に伸びる階段は狭い。成人がすれ違える程度の幅だろうか。上階への道は倒れた看板で塞がれている。レイはコートの裾を翻して地階へと駆け下りた。元は盛り場だったらしく、くすんだネオンの痕跡やいかがわしい看板文字が視界の端を通り過ぎていく。
 雑多に並ぶ空き店舗を素早く見やりながら身を隠せそうなスペースを探していた時であった。
 「……嘘だろ、オイ」
 フロアに降り立ったレイは己が耳を疑った。
 腹に響くエンジン音。火花の匂い。
 真っ赤なハーレーが狭い階段を駆け下りてくる!
 とんでもない力技だ。ハンドルの両端が壁にこすれて火花を撒き散らすのもお構いなしにエイミーはアクセルをふかす。揺れる車体、なびくウエーブヘア、艶めかしく弾むバスト。真っ赤な唇に小悪魔の笑みを刷き、コルトをぴたりと獲物に向ける。
 「ち。こっちの思惑は関係なしかよ」
 狭い場所へおびき出してバイクから下ろし、ヒットアンドアウェイのガンアクションで蹴りをつけるつもりだったのだが。しかし嘆いている暇はない。目にも止まらぬ速さで銃を抜く。狙うはハーレーのタイヤだ。
 「悪いな、お嬢さん」
 にやりと笑い、撃鉄を起こす。
 「悪役が主人公に勝てねえのはお約束さ!」
 銃声。やや遅れて、もう一発。
 エイミーがどれほどの腕前なのかは知らない。だが、目と腕が機械的に連動しているレイのほうが速度も精度も上だった。レイの初弾はじゃじゃ馬の前輪を吹き飛ばし、大きくぶれたコルト・ガバメントは明後日の方向へと銃弾を吐き出した。
 制御を失ったハーレーがバランスを崩す。エイミーは舌打ちしてハンドルを手放した。狭い階段を猛然と駆け下りるバイクを前にしたレイに逃げ場はない。次の瞬間、鈍い衝撃音が轟き、潰れたトマトのようになったレイの姿が現れる――筈だった。
 「……な」
 だが、エイミーはその場に立ち尽くしていた。
 なぜレイは立っていられる。バイクの直撃を受けた体は壁にめり込んでいるというのに。コートの腕が黒焦げになって破れているが、目立った外傷はないではないか。
 “悪役は主人公に勝てない”。お約束という名の予言はいま現実となった。
 「――っと。さすがにちょっと無茶だったか」
 レイはサイバー化した両腕を交差させてバイクを受け止めていたのだ。アブソーバーを全開にして自ら後ろに跳んだおかげで致命的な損傷はない。
 素早く体勢を立て直し、呆然としているエイミーの懐へと飛び込む。
 「知ってるか?」
 白い額に銃口を押し当て、不敵な予言をもうひとつ。
 「主人公に惚れた女スパイが雇い主を裏切るのもお約束なんだぜ」


 白いドレスを鉄入りの靴先が引き裂く。白い頬を岩のような拳が掠めていく。間合いを取ろうと後退することすら許されない。超近接戦闘で大鎌をふるえば致命的な隙ができる。得物での攻撃は早々に諦めざるを得ず、ティモネは些か苦戦していた。
 ノッツォという男の体は巌のようだった。ギャングだけあって非常識な戦闘力を持ち合わせている。繰り出される拳と足は速く精確で、重い。ムービースター疑惑をかけられているティモネだからこうして渡り合えている。
 「私の顔や体に傷を付けてはまずいんじゃありませんか?」
 攻撃を受けながらじりじりと後退する。背後には教会の扉。せっかく逃げ出せたと思ったのに、このままではまた逆戻りだ。しかし微笑は崩さない。
 「ならば大人しくしろ」
 「お断りします」
 「ならば仕方ない」
 繰り返される同じようなやり取り。衰えを知らぬ拳。隙を突いて放つ蹴撃も腹筋の壁に阻まれる。
 「……お許しを」
 瞬間、ノッツォが息を止めた。
 まずい。そう直感したティモネは咄嗟に後方へと跳ぶ。逃すまじと武骨な拳が追撃する。ボディブローを打ち込まれた花嫁の体は勢い良く吹っ飛び、礼拝堂の扉に当たってずり落ちた。
 「さあ。お戻りを」
 立ち上がろうとするより早くノッツォによって背後の扉が開かれ、細身の花嫁は礼拝堂の中へと倒れ込んだ。
 身を横たえたのはバージンロード。重々しい音を立てて扉が閉まり、わずかに差し込んでいた光は呆気なく奪われた。音もなく這い寄る湿気と静寂。持ち上げた目線の先には無機質なステンドグラスと、磔にされたイエスの像。
 無言のノッツォがゆっくりと迫る。ティモネはじりじりと後退する。やがて祭壇へと続く階段に足が引っ掛かり、転倒した。傷付いて倒れ伏した花嫁を見下ろすのはやはり七色のガラスと物言わぬ神子だけだった。
 このまま結婚させられてしまうのか。ギャングのボスとやらと。元の映画を知らないのではハザードを解決する方法の見当もつかない。
 (……馬鹿みたい)
 ドレスはあちこち汚れて破れた。アップにした髪もとうに崩れ、顔には乾いた血と土埃がこびりついている。この姿を見せてびっくりさせたいと浮かれていたのに。
 ああ、こんな時。映画の中ならヒロインを救うヒーローが颯爽と登場する筈ではなかったか。
 ――ならば、祭壇のイエスが花嫁の願いを聞き届けてくれたのかも知れない。
 「……あ」
 ティモネの心臓がことんと跳ねた。
 頑なな扉が軋みながらゆっくりと開いていく。曇天の外はそれほど明るくはない筈だが、この薄暗い教会の中にあって、扉から差し込む一条の光はひどく眩しく見えた。
 バージンロードを染め上げる光をバックに登場したのは金髪の男であった。
 

 エイミーは動かない。額にあてがわれた銃口の下から無言でレイを睨み上げている。
 「イイね。気の強い女は好みだ」
 彼女に銃を突きつけたまま、レイはまんざら冗談でもなさそうに言って唇の端を持ち上げた。
 「残念ね、ハンサム・ガイ。あたしには心を捧げる人がいるの」
 「あたしはあのボス一筋よ、ってか?」
 「――なぜ、それを」
 細眉を跳ね上げるエイミーの前でレイは小さく肩を揺すった。映画のストーリーや人物関係等はデータカードを読み込んだ際にサーチ済みだ。
 「人の恋路を邪魔する気はねえが……惚れた男が花嫁をさらうのを手助けするのか、おまえ」
 その台詞を口にした瞬間、レイの胸で何かがちりっと音を立てた。さらわれた花嫁。それはもちろん映画の中のクーメイのことだ。
 だが今、現実に拉致されているのはティモネだ。このままではティモネがギャングと結婚させられてしまうかも知れない。そんな思いがふと脳裏をよぎった時、灰色の靄のようなものがざわざわと胸に湧き上がったのだった。その感情を何と呼ぶのか、レイは誰に言われるでもなく理解していた。
 「……彼の幸せがあたしの幸せよ。彼がハッピーになれるならそれでいいのよ」
 「ハッピーねえ。無理矢理さらってものにした花嫁とハッピーになれると思うか?」
 鼻を鳴らすレイの前で美しいエージェントは口をつぐむ。
 「それに、あの花嫁はクーメイ嬢じゃねえよ」
 「どういうこと?」
 「ボスが誰をさらったか、ここがどういう街で今何が起こってるのか、順番に説明してやる。愛しのボスを改心させたかったらよく聞くことだ」


■scene4 the Hero has come!■

 「……神父、さん?」
 ティモネが掠れた声で呼ぶと、金髪のマーキス神父は弱々しく微笑んでみせた。
 「大丈夫……です。わたくしがあなたを守ります」
 よろよろとバージンロードを進んだマーキスはノッツォの前に立ち塞がり、ティモネを後ろに庇うように両腕を広げた。呆気に取られてその背を見上げるティモネは彼が肩を負傷していることに気付いた。
 ――失礼。わたくしの出身映画のヒロインに瓜二つなもので、驚いてしまって……。
 セレモニーの打ち合わせの際に懐かしそうに微笑んでいたマーキスの顔をふと思い出す。その優しげな神父は今、ティモネを守らんと気丈にギャングの前に立ちはだかっている。
 「神父さん。レイさんは?」
 だが、ティモネの頭を占めているの目の前の神父ではなく接吻を交わしたあの男のことだ。
 マーキスは振り向くことなく無表情に告げた。
 「途中までは一緒に行動していました。しかしギャングに手榴弾を投げつけられた時にはぐれてしまいました。爆発に巻き込まれたのかも知れません」
 ティモネは小さく息を呑んだ。『爆発に巻き込まれたのかも知れない』。追いかけて来てくれたのかも知れないという思いよりも先にその言葉が重く重くのしかかる。
 「優男。何ができる」
 「わたくしを……かつての同胞を忘れたのですか、ノッツォ」
 「……ボスの命令だ」
 ノッツォはかすかに顔を歪めてマーキスの腹に拳を打ち込んだ。鈍い打撃音。膝を折ったマーキスをティモネが支える。しかしマーキスは弱々しく笑ってみせた。
 「安心してください。あなたを痛い目になど遭わせませんから」
 「神父……さん」
 「さあ、ノッツォ――」
 ステンドグラスの光の下、神父はゆっくりと立ち上がり、花嫁の前で背筋を伸ばした。
 「わたくしを殴りなさい。主はおっしゃいました、右の頬を打たれたら左の頬も差し出せと」
 ノッツォは答えない。顔をしかめて唇を引き結んでいるだけだ。
 だが、いかついギャングはやがて懐に手を差し込んだ。取り出したのは小さなベレッタ。大きな手の中では玩具のように見えるが、間違いなく拳銃だ。
 銃口がぴたりとマーキスに向けられる。しかし元ギャングの神父は真っ直ぐに背を伸ばしたまま動かない。そのマーキスの後ろでティモネが機をうかがっている。隙を突いて足払いを仕掛けるか。だがノッツォの人差し指は既に引き金にかかっている。体勢を崩した拍子に銃が発射されてしまったらどうする……。
 その時だ。
 遠くで雷鳴のように轟く爆音。急速に近付く暴走族の如きエンジン音。
 それは映画のお約束。そう、ヒーローはいつだってピンチの場面でやってくる!
 「ティモネ、伏せろ!」
 ガァン! ダンッ! ダンッ! ガァン!
 銃声の二重奏。分厚い扉に次々と穴が穿たれ、レーザーのように光が差し込む。次の瞬間、真っ赤なハーレーが扉をぶち破って飛び込んで来た。凹凸ができたバイクを駆るのはエイミーだ、もちろんティモネは彼女を知らないが。後席で銃を構えたレイは躊躇なくノッツォの大腿を撃ち抜いた。狙い過たず動脈にヒットしたらしく、真っ赤な血液が勢い良く噴き上がる。膝を折ったノッツォを尻目に、じゃじゃ馬のハーレーは参列席に後輪を突っ込ませて停車した。
 「レイさん!」
 ティモネはマーキスを押しのけるようにしてレイへと駆け寄り、レイは「おっと」と声を上げつつも真正面からしっかりと彼女を抱き止めた。
 レイに対して素っ気なく接することが多いティモネだが、この時の彼女は違っていた。ただ嬉しくて、安堵して、目の前のレイに思い切り抱きつくことしかできなかった。そして、彼女の意外な一面に接したレイは少し戸惑ったように、しかしまんざらでもなさそうに笑ったのだった。
 「やっと……会えたわ」
 煤けたコートの腕に抱かれた花嫁は真っ先にそう告げた。ティモネは知らなかったが、それは奇しくも主人公と再会したヒロインが発したのと同じ台詞であった。
 「何だそりゃ。他に言うことがあるだろ」
 「だって、やっと会えたんだもの」
 「ああ……結局あの迎賓館で顔を合わせる前にこうなっちまったしな」
 時間にすれば半日ほどしか経っていないのだが、随分長く感じられた。そして待たされれば待たされるほど再会の喜びも増す。レイはこのハザードの元になった映画のあらすじを説明し、ティモネは自らの身に起こったことを語り、互いに労い合う。結局、「妬けるわね」と冗談めかしてエイミーが笑うまで二人は抱き合ったままでいたのだった。
 「……あら。こちらは?」
 ティモネはマスクメロンを二つぶち込んだかのような胸元を持つエージェントに愛想笑いを向けた。
 「マフィアに雇われたエージェントだとさ」
 「まぁ……じゃあ敵じゃありませんか」
 「最初はな。けど、事情を話したら分かってくれた。パンクしたタイヤを換えるのにひと手間かかったが」
 「ええ。なかなか素敵な口説き文句だったわ?」
 悪戯っぽくウインクしてみせる爆乳美女にレイは「そりゃ光栄だ」と笑った。
 「おまえのおかげで助かったぜ。礼はちゃんとさせてもらわねえとな。どうだい、今度メシでも」
 「それは素敵な提案ね?」
 と応じたのは巨乳のエイミーではなく貧乳、もといスレンダーなティモネだった。
 レイはばつが悪そうに肩をすくめた。すっと傍を離れて立ち上がったティモネの瞳が冷たい三日月の形に細められていたからだ。
 「いいじゃありませんか、二人でお食事。何なら私のお勧めのお店を紹介して差し上げましょうか?」
 「待てよ。冗談だって――」
 「だけど、お礼はちゃんとしなければいけないでしょう? 気も合うようですし、楽しんでらしたらいいじゃありませんか。エイミーさんは私にはないものをお持ちですから」
 ティモネの敬語は丁寧だが他人行儀だ。とりなすように肩を抱こうとするレイの腕をすり抜け、立ち尽くしたままのマーキスの腕を取ってにっこりと微笑む。
 「ティモネさんは優しい神父さんとお食事がしたいんですよ」
 その瞬間、レイのおもてがさっと厳しくなった。
 「……あら。何ですか、不機嫌そうな顔して」
 ちょっぴり嬉しそうにしたティモネであったが、その微笑はすぐに消え失せた。
 「離れろ、ティモネ」
 目にも止まらぬ速さで銃を抜いたレイが優しげな神父目がけて発砲した。


 「何をするんですか、レイさん」
 首をわずかに傾けただけで銃弾を避けたマーキスは驚愕の表情を浮かべた。
 「猿芝居は見飽きた。もう一発いっとくか? おまえなら簡単によけられんだろ」
 「何を……」
 マーキスの腕がティモネへと伸ばされる。しかし異変を察知したティモネはドレスの裾をさっと翻して避けた。
 手の届かぬ場所へ逃げた花嫁を見やり、温和な神父は唇を噛む。
 「確認してくれ、エイミー。こいつがボスだな?」
 「……ええ。あたしが保障するわ」
 雰囲気や服装が変わっても愛する男の姿を見間違えるわけがないとエイミーは苦々しく断言した。
 ――マーキスは深々と溜息を吐いてかぶりを振って視線を落とした。
 「いつお気付きになったのですか?」
 彼の口調は相変わらず柔和で丁寧だったが、レイへと向けられた双眸は別人のように冷たい光に覆われていた。
 「最初におかしいと思ったのはクレイジー野郎を仕留めた時だ。おまえ、あいつが車から転げ落ちて地べたに叩き付けられるのを見て平然としてたよな?」
 「今は神父でも元はギャングです。流血沙汰は日常茶飯事ですよ」
 「そりゃそうだろう。だが、今は神父なら……本心から神に帰依してるんなら嘆きのひとつでも口にしそうなもんだろう。それに」
 レイは大腿を押さえてうずくまるノッツォにちらと視線を向けてから続けた。
 「そこのデカブツが小せえベレッタを使ったのも気になった。ギャングの武器にしちゃショボすぎる、少なくともあの場面で敵を仕留めるために使う銃じゃねえ。あそこで撃ってみせなきゃ疑われる、けどボスに重傷を負わせるわけにはいかない、だからベレッタ……だろ? 爆発までタイムラグがある手榴弾ならまだ避けようがあるが、銃はそうはいかねえしな」
 レイが得意とするのは情報戦だ。些細な矛盾すらも疑い、調べるのが情報屋の性だ。
 少しでも疑いを持てば後は簡単だった。映画の情報はコートの中のデータカードに入っている。
 マーキスはもう再び深々と溜息をつき、額に手を当てた。
 「まったく――」
 そしてうずくまったままのノッツォにつかつかと歩み寄る。
 「あなたがベレッタなど使うから」
 無表情に革靴で銃創を踏みつける。
 「ばれてしまったじゃありませんか。愚鈍なのは相変わらずのようですね。ヴェガのほうがまだ使いようがある」
 間欠泉のように鮮血が飛び出す大腿を蹴飛ばし、眉ひとつ動かさずに踏みにじる。
 「ああ、神よ。なんと無慈悲な仕打ちをお与えになるのですか。もう少しでうまくいきましたのに。今度こそクーメイさんがわたくしのものになる筈でしたのに」
 ステンドグラスの下、神に向かって嘆く神父の靴は朱に濡れる。動脈を切断する傷を踏みつけられたいかついマフィアは悲鳴を押し殺し、額に脂汗を浮かべている。
 「マーキス、やめ――」
 その瞬間、パァンという乾いた音がエイミーの言葉を遮った。見かねて駆け寄ったエイミーの頬をマーキスが平手で張り飛ばしたのだ。
 「触るな。今のわたくしは機嫌が悪い」
 青い瞳は氷のようで、炎のようだった。青い炎は赤い火よりも格段に温度が高い。
 「ギャングに生まれなくて良かったぜ。ボスのわがままに協力した見返りがこれじゃやってられねえ」
 「協力は任務を完璧に遂行してこそ初めて意義を持つのです。あそこでわたくしの肩を狙ったのは悪くない判断ですが、オモチャのようなベレッタを使うのはいただけない」
 「は、何言ってやがる。俺が最初におかしいと思ったのはそいつがベレッタを使う前だぜ? てめぇの失敗を部下になすりつけるようじゃ上司失格だな」
 せせら笑うレイの前でマーキスは口をつぐんだ。
 「どうしてこんなことを?」
 二人のやり取りを黙って聞いていたティモネが初めて口を開いた。
 「神父さん。どうして私をさらったりしたんです?」
 初めて顔を合わせた時、マーキスは静かに、穏やかに微笑んでいた。そんな男に冷酷な本性があったことが信じられない、というわけではない。
 ただ不思議だった。ティモネはクーメイではない。顔が似ていてもマーキスの想い人ではないというのに。
 だが、ティモネに顔を向けたマーキスはうっとりと眼を細めたのだった。
 「ああ、クーメイさん」
 騎士のようにひざまずき、ティモネの手の甲に恭しく口づけを落とす。彼の指はひんやりとしていたが、唇だけはやけに熱っぽかった。
 「あら……私はクーメイさんじゃなくてティモネさんですよ?」
 「ええ、ええ、そうかも知れません。しかしこれは運命です。実体化し、クーメイさんと引き離されて悲嘆に暮れるうちに信仰と出会いました。そして、教会で神父の真似ごとをしながら穏やかに暮らそうとしていたわたくしの前にあなたが現れた……あの時は心が震えました。わたくしが勤める教会を選んでこのハザードが発生したのも、異変に気付いて外に出たわたくしがあなたが車に乗せられる場面を目撃したのもきっと神の思し召し。この地でならクーメイさんと共に生きられるという神の御心(みこころ)に違いありません。おお、神よ。類稀なる采配に感謝を」
 恭しく手を握ったまま胸で十字架を切るマーキスは恍惚に濡れた瞳でティモネを見上げている。彼はクーメイを愛しているのだろう。別人と知って尚彼女の面影に縋りつきたくなる程度には。
 だが、ティモネはいつものようにゆるりと首をかしげただけだった。
 「あなたがクーメイさんを愛していらっしゃるのはよく分かりました。だけど私は」
 クーメイさんじゃなくてティモネさんなんですよ、と繰り返そうとしたティモネははっとして口をつぐんだ。
 唐突に腕が伸びて来て腰をぐいと抱き寄せられた。と思ったら、次の瞬間にはレイの腕の中にしっかりと抱かれていたのだ。
 「――ふざけんな。ティモネはおまえの花嫁なんかじゃねえ」
 『――ふざけるな。クーメイはあんたの花嫁なんかじゃない』
 「ティモネの相手は俺だ」
 『クーメイの花婿は僕だ』
 レイの言葉がかつて聞いた台詞と重なり、マーキスの目が大きく見開かれる。
 しかし、もっとずっと驚いていたのはティモネのほうだった。
 「レイ、さん」
 「とにかく」
 レイにしては珍しい荒い語気。体を抱く腕に強く強く力がこもるのが分かり、ティモネは息を詰める。どうしてこんなにも息が苦しいのだろう。どうしてこんなにも甘い胸苦しさが込み上げるのだろう?
 「ティモネは誰にも渡さねえ。覚えとけ」
 『クーメイは誰にも渡さない。覚えておけ』
 映画の主人公そのままの表情と台詞の前に膝をつくギャングの姿はティモネの視界には入らない。
 いっぱいに見開かれた赤い瞳はただただ歓喜に濡れて震え、やがて美しい笑みの形を刻んだのだった。


■scene5 Road of the Happy Ending■

 ――と、ここで終われば文句なしの大団円だっただろう、が。
 「……あれ?」
 「……あら?」
 レイがティモネを抱き、ティモネがレイに抱かれること数分。教会の内装は変わることなく、破れた扉の向こうにも相変わらずスラム街の景色が続いている。
 「エンディングはまだよ」
 ウェーブヘアを色っぽく揺すってエイミーが笑った。
 「知ってるでしょ? ラストは主人公のコルセオとクーメイの結婚式のシーンなの」
 くすくすと笑う女エージェントの前で二人は顔を見合わせた。
 「……やっぱりそうか」
 「ハザードを収束させるためには映画通りのストーリーを、ということ?」
 つまり……結婚式だ。
 「そうです。結婚式です」
 打ちひしがれていたマーキスがふらりと立ち上がり、胡乱な眼を二人に向けた。
 「どうせふられるのならわたくしが式を挙げてさしあげましょう」
 「いや、マーキス。そんなに気ィ使わなくていいって」
 「いいえ、挙げさせてください。むしろ挙げてやります。……せめてクーメイさんが幸せになる姿を見届けなければ」
 涙をこらえ、一世一代の宣言でもするかのように肩を震わせるマーキスの傍らでエイミーが小さく肩をすくめた。
 ――間の悪い沈黙が流れる。
 ティモネは何も言わない。しかし横目で静かにレイの様子を窺っている。一方、当のレイは「あー」と頭を掻いた。
 「まぁ……真似事でいいんだろ? それならまぁ、なぁ」
 「真似事など許しません」
 いつものようにのらりくらりとかわすレイにマーキスが詰め寄る。失恋の痛手ゆえなのだろうか、すっかり人が変わってしまったギャングの様子にレイは口許を引き攣らせた。
 「あなたはわたくしからクーメイさんを奪うのです。中途半端など許しません」
 「……色々と間違ってるだろ、それ」
 「間違ってる?」
 「――っと」
 レイは慌てて口をつぐんだが、遅かった。ちらと横を見た途端にティモネの冷たい流し目とかち合い、首をすくめる。
 「いや、だってティモネはクーメイじゃねえし。だから俺はマーキスからクーメイを奪うわけじゃねえし。間違ってるってのはそういう意味さ」
 「……そうね」
 「だろ?」
 「けど、中途半端は駄目よ。本気で愛を誓わないと」
 からかうようなエイミーの声が割り込み、レイは思い切り眉間に皺を寄せた。
 「だってそうでしょ、コルセオとクーメイは真剣に愛し合って結婚式を挙げたのよ。だからあなたたちも本気で誓いの言葉を述べて式を完了させないといけないんじゃないかしら。そうじゃなきゃ映画のストーリーにそぐわないわ」
 「そういうの無茶振りって言わないか?」
 「いいじゃない。お似合いだし、いい機会よ。迷惑料代わりにタダでウエディングをしてあげるってマーキスが言ってるわ。ね、マーキス?」
 マーキスは答えずに視線を泳がせるが、否定する気はないらしい。
 「ほら、決まり!」
 おせっかいなエージェントは胸の前でパンと手を合わせてティモネに微笑みかけた。
 「花嫁さん、主役はあなたよ。場所はどこがいい? やっぱりこの教会?」
 「……いいえ」
 「あら……この辺りでまともな場所はここくらいしかないんだけど」
 「そうじゃありません」
 レイの傍らからさりげなく離れ、ティモネはゆっくりとかぶりを振った。
 「式は結構です」
 「え?」
 「だって、レイさんが嫌がっていますもの。嫌がる方に無理強いなんかできません。新郎役は他の方にお願いしますから良いです」
 レイは答えない。エイミーに「ちょっと」とせっつかれても沈黙を保っている。
 そんなレイをちらと流し目で見やり、ティモネはそっと背を向けた。
 「……私が無理にお願いするとでも思ったの?」
 ウエディングドレス。結婚式。誓いの言葉。欲しくないわけがない、けれど。
 「――誓いの言葉を嫌々言ってもらっても嬉しくないし、意味がないわ」
 頭が、心が、冷えていた。数分前まではレイの腕の中で幸せのさなかにいたというのに、いともたやすく冷えてしまった。
 先程の言葉だけではない。辛い思いはさせないと言ってくれたのに。愛していると言ってくれたのに。そしてティモネもそれを覚えている筈なのに……。
 「……どこに行く気だ」
 投げかけられるレイの言葉もティモネには届かない。
 「お気遣いなく。素敵な花婿さんを探します。そうね、いっそのこと神父さんにお願いしようかしら」
 「ああもう、レイ!」
 エイミーがじれったそうに声を上げる。しかし彼女自身はティモネを引き留めようとはしない。それはレイの役目だし、レイがしなければ意味のないことだからだ。
 レイは尚も唇を噛んでいたが、やがてつかつかと進み出て乱暴にティモネの手首を掴んだ。
 「痛い――」
 「当たり前だ。……離さねえように掴んでるんだから」
 「え」
 ティモネはようやく目を上げる。レイはむずがゆそうに唇の端をもごもごさせていたが、やがて意を決したように口を開いた。
 「その……あれだ。誰にも渡さねえってさっき言ったろ」
 その時、ティモネは初めてレイのミラーシェードが憎らしくなった。このミラーシェードがなければ今のレイの表情がもっとよく分かったかも知れない。
 「他の男と結婚式なんか挙げさせてたまるか。ティモネの相手は……花婿は、俺だ」
 ――映画の台詞を借りて放たれた言葉はややぶっきらぼうだったから、それがプロポーズなのだと理解するまでにはいくばくかの時間を要した。
 レイはティモネの手首を放した。それから彼女の手をそっと――花嫁を祭壇へ導く花婿のように優しく――握り、映画の主人公も口にしないような気取った言い回しで、しかし至って真面目に告げたのだった。
 「一緒に祭壇に立ってくれないか。……俺の、隣に。そのウエディングドレスを着たままで」
 ティモネの頬と耳が瞬時に熱せられ、エイミーは冷やかしの口笛を鳴らした。
 

 ティモネが選んだのはマーキスが建てた教会ではなく、ハザードのスタート地点となったあの寂れた教会であった。
 「さっきの所のほうが綺麗なんじゃないか?」
 カビと湿気の匂いが充満している。バージンロードにも絨毯など敷き詰められている筈はなく、レイは腐った床を踏み抜かないようにおっかなびっくり足を進めながら祭壇に辿り着いた。
 「ギャングの建てた教会なんてごめんです。それに、今の格好にお似合いじゃなくて?」
 「……かもな」
 ハードなカーチェイスの後で銃撃戦をこなし、その上ハーレーを体で止めたレイのコートは穴だらけの煤だらけだ。ティモネもティモネで回し蹴りを放つためにドレスのサイドを裂いてしまっている。おまけにノッツォとの肉弾戦であちこちに裂け目や汚れができていた。
 祭壇では聖書を手にしたマーキスがむっつりと佇んでいた。肩の銃創はエイミーによって応急処置が施され、包帯が巻かれている。そのエイミーは崩れた参列席の最前で二人を――正確にはマーキスを、だろうか――見守っていた。
 「ちょっと待ってくれ」
 レイは何かを思い出したように手を挙げ、聖書を手に取ろうとしたマーキスを制した。
 コートの懐から取り出したのはグリーンオニキスのネックレス。クリスマスにレイがティモネへ贈った品だ。
 「レイさん、これ」
 「さらわれた後に落ちてた。せっかくプレゼントしたんだから大事にしてほしいもんだな」
 「違います。なくさないようにってちゃんと握ったのに、いつの間にか落ちていて。控室にいる間もずっと着けていたのに――」
 「はは。分かってる」
 レイはいつものように笑いながらティモネの首にネックレスを着けた。クリスマスのあの夜、二人で乗った観覧車の中でしたのと同じようにして。
 「さらわれる直前まで着けててくれたから床に落ちてたんだろ? 嬉しいよ、大事にしてくれて」
 「……分かっていてからかったのね?」
 「いつものお返しさ」
 ティモネの視線をすり抜けて祭壇へ向き直ると、そこには不機嫌な神父の姿がある。
 「……それでは……――……を執り行います」
 「あ? 何だって?」
 「神父さん、聞こえません」
 「………………」
 うつむいて唇を噛んだマーキスであったが、さすがに神父の意地があるのだろうか、やがて厳かに「結婚の儀を執り行います」と宣言した。
 聖歌隊もない。荘厳なオルガン演奏も、美しいステンドグラスもない。参列席に立つのは親族や親しい者たちではなく女スパイ一人だけだ。しかし祭壇の前に立つ新郎新婦はそれを気に病む様子もない。壁の隅をちょろちょろと這うヤモリが足を止め、不思議そうに首をもたげて簡素な結婚式を眺めていた。
 神父によって定番の口上が読み上げられる。健やかなる時も病める時も妻の傍にあり、変わらずに愛し続けることを誓うかと。
 「俺……じゃなかった。えー、ワタクシはティモネを妻とし」
 このハザードが発生し、映画のあらすじを知った時からこの結末は予想していた。初めは結婚など思いもよらなかったけれど。
 「健やかなる時も病める時も」
 それでも少しずつ気持ちが傾いていった。だから今ここに立っている。
 「……たとえこの身が消えようと」
 アドリブでそう付け加えると、傍らのティモネがはっと目を見開く気配が伝わった。
 「この先何があろうと、たとえどんな結末を迎えようと、傍に居て、愛し続けることを誓います」
 ティモネは慌てて目を伏せた。花婿の言葉が終われば次は花嫁の番だ。泣くのはまだ早い。
 「私はレイさんを夫とし――」
 慎重に。一言ずつ。だけど、早く言ってしまわなければ涙が溢れてしまいそうで。
 「健やかなる時も病める時も……たとえ明日に全てが消えようとも」
 苦しむことになるだろう。悲しむことになるだろう。
 「離れ離れになろうとも、それを止められないのだとしても」
 きっと残るものはある筈だから。優しく降り積もったかけがえのないものが残ると、信じているから。
 「私は――」
 誓う。ムービースターのレイを愛すると。
 「……レイさんを……傍で……愛すると……」
 誓いますと。その一言だけで良いのに。
 声が、体が、そして心が。ティモネのすべてが、どうしようもなく震えている。
 「大丈夫か」
 覗き込んだレイにそっと囁かれてティモネは気丈に唇を引き結ぶ。そのまま幾度か深呼吸を繰り返した。
 「レイさんを愛すると誓います」
 その瞬間、どんなダイヤよりも美しく煌めく雫が頬の上を転がり落ち、胸元のグリーンオニキスを濡らした。
 ――カラン、カラン……。
 遠くで鐘の音が聞こえた気がした。
 床が消えたかのような奇妙な浮遊感。朽ちた教会の景色が、スラムの街並が、高速の走馬灯のように遠のいていく。


 カラン、カラン、カラン……。


 緩やかな鐘の音とともにベイリーフヒルは本来の姿を取り戻した。
 「鐘の音はコイツのせいか」
 帰還した新郎新婦が立っていたのはちょうどチャペルの前庭、海を望む鐘の前だった。気まぐれな潮風が鐘を鳴らしてくれたのだろうか?
 マーキスはエイミーに背を叩かれながら早々にその場から退散してしまった。入れ替わるようにして式場の職員やセレモニーの見学者たちも三々五々姿を見せる。引き裂かれて汚れたウエディングドレスを見た職員は眩暈を起こしかけたようだったが、ハザードを解決してくれたのが二人だと知ると丁重な謝辞を述べた。
 「レイさん」
 ギャラリーの前でティモネが悪戯っぽくレイの袖を引いた。
 「ついでですし、鳴らしてみません? 祝福の鐘」
 レイの唇が盛大にひん曲がった。
 「あら……またそんな顔して。嫌なら結構ですよ?」
 にこにこと微笑むティモネの言葉には棘がない。からかって面白がっているだけだと分かる。レイのほうも今更ハザードの解決を理由にはぐらかすつもりはなかった。
 「あ、鐘の前に」
 事の成り行きを見守っていたギャラリーの一人が声を上げた。「誓いのキスは?」
 二人がどうやってハザードを収束させたを聞いた職員や見物客は口々に囃し立て、好意的な冷やかしを投げてよこした。
 「……参ったな」
 「あら。段取りは大事でしょ? 誓いの言葉、誓いのキス。鐘はその後よ」
 「しかし、人前でってのは」
 「結婚式は大勢の人の前でするものじゃないかしら。――ね?」
 ほんの一瞬であった。ティモネはすっと背伸びしてレイの唇に唇を重ねていた。決して官能的ではない、しかしフレンチとも違うしっとりとした口づけ。
 見守る観客の間に温かいどよめきが広がり、いつしか拍手の波へと変わった。
 「……誓いのキスってのは厳かな雰囲気の中でやるもんじゃねえのか?」
 「だって、教会ではしてくれませんでしたから」
 不意打ちに頭を掻くレイの前でティモネは軽やかにドレスを翻した。
 商魂たくましい式場の職員が写真撮影を申し出る。今回のハザードのエピソードは式場の宣伝にうってつけということなのだろう。借り物のドレスを台無しにしてしまった負い目もあり、二人は快く撮影を承諾した。
 「さあ、お二人の初めての共同作業でーす」
 若い職員が合いの手を入れると、どっと穏やかな笑いが起こった。


 カラン、カラン。
 鐘が鳴る。祝え響けよと高らかに。
 カラン、カラン。
 花嫁の右手は花婿の左手に。花婿の右手は花嫁の左手に。互いに互いの手を重ね、祝福の鐘を打ち鳴らす。
 カラン、カラン、カラン。
 昇る、昇る、薫風に乗ってどこまでも。ウエディングベルは上昇気流のように天高く舞い上がる。
 「レイさん」
 「何だ?」
 「うふふ。――大好きよ。私のハンサムさん」
 「……っ」
 カラン、カラン、カラン、カラン……。
 新緑に囲まれた丘の上、新緑の色をしたネックレスがぼろぼろの花嫁の胸で清々しく輝いていた。
 

 (了)

クリエイターコメントご指名ありがとうございました。お初にお目にかかります、宮本ぽちです。
そして、おめでとうございます。
どこかはちゃめちゃなウエディングノベルをお届けいたします。

スターとファンの立場の違いやそれゆえの葛藤は依戒アキラ様の『伝わる想い』にて描かれていますので、今回はほとんど触れずにおきました。
「誰にも渡さねえ」と言っておきながら、その直後にレイ様が挙式を躊躇うのは微妙な男心だと思います。いざとなると踏ん切りがつかないというアレです。
そして、それに苛立つのも女心なのだろうなぁと思います。

大事なことなのでしつこく繰り返しますが(笑)、この度は本当におめでとうございました!
所でマリッジではなくマリアージュなのは単に語呂が良いからなのでした。
公開日時2009-05-19(火) 18:10
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